先人たちの底力 知恵泉 「歴史は勝者によってつくられる 明治維新の不都合な真実」
が1月23日放映されました。
歴史は勝者によってつくられるの2回目ですが、薩長新政府から逆賊とされた人物の名誉回復までに如何に時間が必要であったかという話でした。
勝海舟は幕臣から新政府で要職を歴任し旧家臣から変心を非難されながら主君であった徳川慶喜公の回復に尽力しました。徳川慶喜公が明治天皇に拝謁し名誉を回復したのは明治30年(1897年)のことでした。勝海舟の日記には「我が苦心三十年、少しく貫く処あるか」の一行があるそうです。
幕末に京都守護職として薩長の志士たちを取り締まる立場で、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した松平容保公と会津藩でしたが、その正義を世に訴える為に山川浩が著して弟の健次郎が引き継いで完成した「京都守護職始末」が発行されたのは明治44年(1911年)のことでした。
小栗上野介は、薩長への恭順に反対し主戦論を唱えたが罷免されたのちに、隠遁先で逮捕され斬首されました。洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行いました。
大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語り、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した程の人物でした。
1904年の日露戦争後に日本海海戦の英雄「東郷平八郎」元帥は自宅に小栗上野介の遺族を招き、「このたびの海戦において、勝利を収められたのはあなた方の父上が横須賀造船所を日本のために建設しておいてくれたおかげです。造船所で造られた船で我々は敵を壊滅させることができました。」と感謝を述べてようやく名誉回復が始まりました。
勝者によって失われた敗者の名誉を回復することは大変なことだと思いました。
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